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MPCプレイヤーと名乗るまで・第四章

年は明けて2010年。バイト行ってクラブ行ってパッドを叩くだけの日々の中で待ち続けた、ゴールドフィンガーズキッチン一般公募が始まった。出場者の半分は予め運営側がブッキングしていて、残り半分を募集している。メールで応募したら特に審査などは無く、ビックリするぐらいあっさり出場は決まった。当時からMPCで演奏する人間なんてのは少なかったのだ。出場が決まってからはより一層演奏にのめり込んで行く。

大会にエントリーした事を知ったマチーデフことマチさんが、俺の武者修業も兼ねてストリートライブをしようと提案してきた。マチさんがそのために買って来たデカいバッテリーパックとアンプを持って下北沢や渋谷に繰り出し、MPC演奏とマチさんのラップでゲリラ的にライブをしていた。マチさんはこの時から自分が有名になる事よりもまず「ラップに縁がない人達にもラップを聴いて欲しい」という思いがあり、道行く人達に向かってその信念を吐き出していた。そのスタンスは今現在も変わらず、この時とは比べものにならない規模で活動し続けてる訳だがそれはまた別の話。

一方の俺にはそんな余裕は無かった。ただ自分を見て欲しい。カッコいいと言われたい。それしか頭に無かった。承認欲求の化身みたいなマインドでひたすらに演奏した。

バッテリーが切れるか警察に止められるまで、俺達は無限にライブし続けた。常にオープンマイク的にマイクを二本用意していて、時々通りすがりのラッパーが乱入してくる事もあって楽しかった。その中には、若干18歳ながらバトルで名を上げ始めていたKANDY TOWNKIKUMARUもいた。それが縁で俺はのちに彼の1stアルバムに楽曲提供する事になる。そういう意味でも大事なストリート経験となった。

地道に鍛錬を積む事数ヶ月。大会で演奏するセットは予選一カ月前には出来上がっていた。

10秒、20秒、40秒の、それぞれのターンを想定した瞬発力重視の演奏。

RUN DMCのSucker MC’sを再現したドラムパターン。初代ドラゴンボールのオープニングテーマをサンプリングした曲。SOULSCREAMのひと夜のバカンス同じネタを使って倍速のドラムで叩く曲。

なんというか、瞬発力を重視し過ぎて「派手なネタで派手に叩けば正義!」みたいな内容だった。この三つがあれば予選突破確実!無敵のセット!だと本気で思っていた。まぁそう思えないなら出ない方がいいので姿勢としては間違っていない。姿勢としては。

とにかく優勝して注目されれば状況は変わる。確実に今よりは良くなる。何か起きる。起きてくれるはず。じゃないと困る。

短期的なゴールは見えたけど、そのゴールを利用するとこまでは考えられてない。目の前の事で必死だ。
そんな淡過ぎる希望を胸に潜ませながら大会当日を迎えた。

予選の舞台は今は無き渋谷ブエノス。

STUTSもビートクッキング部門で出場する事になっていた。ビートクッキングではセコンド付きという謎のシステムがあって、それぞれ自分のグループのラッパーなんかを連れて来ていた(PUNPEEさんは5lackがセコンドだった)。STUTSのセコンドとしてやって来たKMCと三人で近くのモスバーガーで昼食を食いながら集合までの時間を潰す。「大会で勝ったらどうするよ?」なんて会話をしてて、もし勝てたらソロアルバムを出したいとSTUTSは言っていた。名前が知られるきっかけを欲していたのはSTUTSも同じだ。それは実際に6年後にリリースされ日本語ラップシーンと俺のメンタルに多大な影響を及ぼす訳だがそれもまた別の話。

STUTSとKMCの前だから余裕ぶった態度でいたが、本当は緊張と不安と高揚感でどうにかなりそうな状態。それを隠したまま歩いてすぐのブエノスへ3人で向かった。

遊びに来たことは何度もあるけど出演側としては初めてのブエノス。客が居なくて照明の明るい開店前のクラブというのはどこもこじんまりとして見える。その明るいダンスフロアにはMPCを抱えた猛者達が犇いていた。

既にエンジニアとしてお世話になり始めていたDJ HIRORONさんだけが唯一の知り合いで、後は初めましてのおっかない先輩達ばかり。
その中には去年の大会で準優勝した熊井さんも姿もあった。俺からすればラスボスだ。

MPC3000やMPC2000の所持者が多く、熊井さんに至っては巨大なMPC4000を持ってきていた。
俺のMPC2000XLはそれらより一回り小ぶり。

自分のMPCがひどく頼りなく思えた。
(いや、マシンは関係ない!こいつで圧倒してやるぜ!見てろよ!)
そうして無理矢理気分を高めて、ビビりつつある自分を体の奥底に押し込める。

ビートクロスの予選では16人が一対一で戦って、プレイヤーを半分に絞る。生き残った8人は数ヶ月後の本戦で戦う権利を得る。今日戦うチャンスは一度きり。

目的はとにかく、予選突破して最後は優勝。

賞金や賞品なんてどうでもいい。そんなんバイトすればいい。KO-neyというMPC使いが居る事をできるだけ多くの人に知って欲しいだけだった。言ってみればその欲求だけで鍛錬をして今ここに居る。だから優勝しなければ何の意味もない。予選で敗れた人間の事など誰も覚えちゃいない。出るだけで意味がある大会なんてものは存在しないのだ。MCバトルやターンテーブリストの大会のように年間あちこちで何度もやってる訳じゃない。今日を外したら終わりだ。半ば強迫観念のように自分に言い聞かせる。

今にして思えばそこまで思い詰めなくてもという感じだが、SNSやYouTubeでアプローチする概念が一般的でなかった当時の日本では、MPC演奏を大勢に見てもらう機会はこの日をおいて他にない。とにかく名を上げる事に必死でそれしか考えてない、もうそこまで若くもない無名の若手だったのだ。

やがて対戦の組み合わせを決めるクジ引きの時間がくる。

知り合いのHIRORONさんとかに当たったらやりずらいなぁ、などと思いながらクジを引いた。すると自分は一番最後のブロックだった。壁に粗末に貼られたトーナメント表に次々と組み合わせがペンで書き込まれていく。

なんとなく嫌な予感が過った。俺の人生はいつも大事な局面で間が悪い。大事な物を賭けてジャンケンすると100%負けるタイプ。

最後のブロックまで名前が書き込まれ、ようやく自分の対戦相手が判明する。

KREVAの現バックDJにして前大会準優勝者”熊井吾郎”の名が、極太の油性ペンで俺の隣に書かれていた。

to be continued

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