カテゴリー
BLOG

MPCプレイヤーと名乗るまで・第一章

「MPCどれぐらいやってますか?」とか「音楽を始めたきっかけは?」といった事を本当によく聞かれる。
有難い事にここ何年かで俺を知っくれた人がかなり増えたのでより一層聞かれる。

嬉しい。浮かれついでにちょっと書き綴ってみようと思ったら超長くなったので、何回かに分けて書いてみようかと思った次第。
途中で打ち切りは無い。もうほぼ全部書いてしまったので。

MPCでパフォーマンスするきっかけとなった時期は2009年頃。
そこまではざっくり年表スタイルで、音楽を始めた経緯をさらっと。

1997年
HIP HOPに出会う。

1998年
不登校になる。家でやる事がゲームしかないので、母親(吉田拓郎世代)の勧めでちょっとギターを触る。音楽における超基本的な事は母親から教わる。

1999年
携帯電話の着メロ作りをきっかけに打ち込みに目覚める。後に16和音が作れるJ-PHONE SH04を手にしドラムパターンをこれで覚える。

2000年
ニトロのMVでDJ WATARAI氏がMPC2000XLを操作している映像を見て「アレでHIP HOP作るのか」と感じる。

2001年
金は無いが本格的な曲を作りたい衝動が抑え切れず、安い小型のシンセサイザーYAMAHA QY-20(中古で¥20,000)と簡易的な録音機材(4トラックのテープMTR、ハードオフで¥5,000)を購入する。

2003年
地元の友達が出会い系サイトでナンパした女の子がラッパーで、オリジナルトラックが欲しいという話になったらしく、その子を俺に紹介してくるという奇跡が起きる。何曲かデモを録音したMDと財布だけポケットに突っ込んで渋谷のクラブ(坂の途中にあった頃の渋谷GAME)に初上陸。そこで出会った人達へ楽曲提供らしき事を始める。

2004年
サンプリングはレコードからだ!という事でまだサンプラー持ってないのにターンテーブルを購入。憧れだったDJの真似事も始める。一つ年上のラッパー2人によるジンギラスというクルーのバックDJになる。

2005年
仲間から借金して念願のMPC2000XLを購入。使い方が分からなすぎて悪戦苦闘。そんな中で、同い歳のラッパールイとナックルを人から紹介されてビート提供し始める。流れでそのまま彼らのクルーMONSTERへ加入。ハチ公サイファーに通っていた18歳ぐらいのKMCとも出会う。

2006年
今も所縁が深い渋谷familyで世代が近い仲間達とイベントを始める。イベント名は「東京KRUSH GROOVE」とKMCが名付けた。

2007年
DJ兼ビートメイカーとして、チケットノルマ地獄、胡散臭いコンピレーションCDへの参加(ビート提供したのに何故か買い取りさせられる奴)に苛立ちながらも地道に活動。実家を出て都内に引っ越すため金を貯める。

2008年
自分が全てのビートを作り、先輩や仲間達を客演MCとして招いたデモCDを製作。夏の終わりから都内で独り暮らしを始める。

2009年…

春頃に自分達で主催してきた東京KRUSH GROOVEを閉じる事になった。それと時を同じくして、2MC1DJ体制で活動してきたMONSTERを抜けた。方向性の違いと言えば聞こえはいいが、単に俺の融通の利かなさが原因。

ナックルには子供が出来て、ルイは留学から帰ってきて仕事に就こうという所で、二人とも自分の生活はありつつ音楽をずっと続けるスタンスを取ろうとしていた。
自分の生活基盤はしっかり作った上でやった方が好きな音楽だけを作れる。その方法で続けながら音楽をしっかり評価されている人も沢山いた(近いとこではDEJIさんとか)。

この頃はCDが売れなくなって久しい上にデジタル販売もまだまだ黎明期という、メジャーもインディーも等しく景気が悪い過渡期真っ只中。特にポップでないHIP HOPはまず売れないというのが常識で、ポップにしたとてそれで食っていくのは今よりも遥かに困難な状況だった。

それでも俺は別で仕事を持つという選択が出来なかった。音楽を続ける事が目標ではなく、音楽だけで生活していくのが夢なのだ。
長期的な計画も勝算もないが、本気でこれをだけをやっていればいずれどうにかなるはず。
そんな、中卒で就職歴も無ければ車の免許しか持ってないバイト暮らしの夢見がちで世間知らずな23歳の若造は「俺は音楽ガッツリ出来ないのは嫌だ!」といった感じで自分からクルーを抜けた。

抜けたものの果たしてどうするのか?
曲は作れる。DJも20歳ぐらいからやってる。
しかしまだ提供相手も今みたいに沢山居る訳でもなければ、曲自体の評判も仲間や一部の先輩が褒めてくれる程度で特別いい訳でもなかった。DJだって特に上手い訳じゃない。

とにかくやるしかない。
大丈夫、きっと俺にはまだまだ伸びしろがあるはずだ。

褒めてくれる先輩の中には、今も一緒に仕事する事が多いマチーデフ(当時はMachee Def)ことマチさんが居た。マチさんは自分でもビートを作っていたので、かなり細やかなビートメイクの話が出来る。同業の知り合いがいない自分にとっては楽しかった。近所に住んでいた事もあって気軽に会って話せる先輩だった。確かこの年にはバックDJとして二回ぐらい一緒にライブした気がする。

そういう新たな動きがありつつも自分の状況は相変わらず。
夕方から夜中まで新宿の焼き鳥屋でバイトして、終わったらチャリでそのまま渋谷に行って、有名ゲストがライブするイベントや馴染みの箱(主に渋谷family)に潜り込んではデモを配りまくり、帰って寝落ちするまでビートを作る日々を過ごす。絵に描いたような下積み。
人によっては「青春だったな」とか言って悪くない気分で振り返るんだろうけど、今振り返っても戻りたいとはカケラも思わない。地平線の向こうにあるっぽいゴールらしき何かに向かって合ってるのかよく分からないまま漠然と歩いてるだけで、とにかく「早くこのクソみたいな生活終わらせたい」とばかり考えるしんどい日々。

同じ頃、アメーバブログでビートメイクに関するブログも書き始めた。曲の作り方やMPCの使い方をHIP HOPに超特化した形で。アレを読んだのがきっかけでビートメイクを始めた人や読んで参考にしたという人は未だに結構居る(唾奇くんとかillmoreくんとか)。それは素直に嬉しい限りだが、当の俺は広めようとか教えようとかそんな大層なスタンスでは無く、自分がやっている事を知って欲しくて書いているだけだった。PCソフトが進化を続けてMPCでやっていた事が割と誰でも出来るようになってきた事への恐れとカウンター精神もある。

それも手伝ってかこの頃が一番90年代HIPHOPへ傾倒していた時期だった。金や学や音楽知識、まともな機材さえも無い連中が、世間をビビらせるような曲を世に放って成功するエピソードの数々に奮い立つ。

ボロアパートの居間で作った曲でメジャーシーンに立ち向かったMarley MarlHavoc、安物の機材で自主制作した音源で一気に登り詰めたWu-Tang
海の向こうのヒーロー達が成り上がった話だけが俺の味方だ。
もっとあらゆる物を吸収すべき若い時期に偏りまくった音楽観を形成してしまったことは今でも少し後悔している。しかし不安で燻っていた心の隙間をあれほどバッチリと埋めてくれるモノはこれしか無かった。「今のどうにもならない自分でも大丈夫だ」と思わせてくれる。HIP HOPがどうしょうもないワルさえも受け入れてくれると言うなら、どうしょうもなく中途半端で何者でもない自分もそこへ逃げ込んだってバチは当たらないはずだ。

だからMPCだけでビートを作る事に強く拘り、それを理解してもらいたくてブログを書き続けた。

そちらの反応は割と上々だった。元々不登校児だった自分がまるで先生のように扱われるのは悪くない気分。いや、正直めちゃくちゃ良い気分だ。特にこの頃は音楽の専門学校行ってた奴らに馬鹿にされる事が多かったので見返してやった感もあり。「出来ない子の気持ちが分かるタイプの先生」などと自分で思っていた。しかし、肝心の自分の楽曲に関してのリアクションは限りなく薄い。方法論やギミックを説く、言わば現在のYouTuberに近い感じで、ブログの評価と自分の創作物への評価はまた全く別物だった。

なんか絶妙に上手くいかない。
良い感じになりそうな気配がしては別段何も進まない。
でも全然ダメって訳でもないから辞めることはない。
決定打が見えないまま年齢だけ食って手が付けられないことになってる未来、という物だけはバッチリ見える。

ついでに当時付き合っていた彼女からも、このお先真っ暗な将来を理由に別れを切り出され、いよいよ惨めな状況になって来た所で秋を迎えた。

相変わらずバイトと曲作りと時々クラブの生活を送っていたある日、ラッパーの友達に誘われて渋谷エイジアでやっているイベントに遊びに行く事になった。ゲストでフリーで入れて貰えるなら何処へだってチャリで行く。地位や名誉以前に金の無い若造だ。

「ところで誰のイベントなの?」
「ゴールドフィンガーズキッチンって言うんだけど聞いた事ない?」

そのイベントの名前は聞いた事があった。

MPC使い達が集結して己の技術を披露する大会、GOLDFINGER’S KITCHENである。

to be continued

SHARE

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA